669:2/12





毎年ながら、2月のハケ際の鮮やかさには目を見張るものがある。 



素早くそして、一切の未練を残させない。 



2月は吹き去る風のごとく瞬時に過ぎ去ってしまうのに、気が付くと名残惜しさどころかボクたちはもう春への希望で胸がいっぱいなのだ。 




春がくる。 





モチロン2月もたくさん本を読んだ。 



そしてたくさん読むにつれ、色々な人の繋がりが見えてきて、とても面白く感じている。 


例えば、2年前に初めて読んだ木村秋則さんの別の本をたまたまお借りして、読んでいたら、そこに紹介されていた自然農法の人は他でもない、福岡正信さんの本で、つまるところ、それはつい先月読んだ本だった。 


更にヨーガン・レールさんの本を読んでいると、先月初めて足を運んだギャルリ百草が出てきたり、そのギャルリ百草の店主であり陶器作家の安藤雅信さんまでもが登場したり、とてもワクワクした。 


更にヨーガンさんも福岡正信さん発祥の自然農法を実践されていて、なんやかんや結局みんなつながっていた。 


今月も素晴しい本に沢山出会えてほんとうに感謝だ。 



そして、現在52冊。 


年内残り348冊。な、なんかイケる気がしてきた。 
http://mixi.jp/list_review.pl?from=navi 



その他にも2月は家にサトちゃんのバッグショップをオープンしたり、初めてハンガーを作ったり、鍋で遊んだり、創作活動も活発でした。 


You&iも好調で三重からの10名ものお客様がヨガ&ご飯会に来て下さった 
り、大家さんのお母様のお友達たち5名様にもレッスンさせて頂いた。 


三重からのお客様の時は家のお母ちゃんも来てたのでキュウキョ一緒にヨガをして、いっちゃんのご飯まで頂いて帰っていった。 

お母ちゃんにヨガのレッスンを見られるのは参観日的カンカクでちょっと照れくさい経験だったけど、なんかとても喜んでもらえて嬉しかった。 



他のお客様にも、とてもご好評頂き恐縮の極みであった。 


レッスンを通して、最初はあぐらがダメだった人は終わりがけには「出来るようになった!」といって喜んで下さったりして、じんわり感動したりもした。 



デザインしたり、コーヒー習ったり、ヨガを教えさせて頂いたり、ハンガー作ったり、読書したり、写真撮ったり、「ありがとう」を数えたり、こうして欠かさず日記を書いたり、相変わらず満点の毎日だ。 



これは、ボクにしてはいささか上出来すぎる人生であり、上出来過ぎる2月だった。 





とにかく、ひたすら感謝である。 






ありがとう2月。 







春がきた。






668:ハナゲロック





オッサンほどロックな生き物はなかなかいない。 



その辺のロックバンドよりも、その辺で1杯やってるオッサンの方がよっぱどロックを体現していると、常々ボクは感じている。 




女子から、いや時として男子から、ペットからさえも忌み嫌われ、一般に最も美から遠い存在だと思われているのが、孤高の人種、ジャパニーズサラリーメン「オッサン」である。 



オッサンほど悲しいカルマを背負った人種はそう多くないだろう。 



そう、現代社会における日本のオッサンといえば、下世話極まりない振る舞いにより、人様に嫌悪感を与えることに関して、常に社会で一目置かれ続けるプロフェッショナル。 


負のカリスマ的存在である。 




現代社会が産み出した悲しみの産物といってもいい。 



人はそんな彼らに対し最大限の敬意をはらい、ツバを吐くように「オッサン」と呼ぶのだ。 



これほどまでに敬意も効果もヘッタクレもない「〜さん」の使われ方も珍しいものだ。 




しかし、それこそが「オッサン」の神髄である。 





そして彼らの特徴の1つに、生命力みなぎり躍動感あふれんばかりの「鼻毛」が数えられる。 



彼らのそれは防衛本能からか、育毛剤の効果が間違って表れたのか異常に発達しているケースが多くみられる。 




要するに、どう見たって飛び出し過ぎなのだ。 




鼻、そんなに守らんでえぇんちゃうん?? 


石、転がっといたらええやん 



という感じで、オッサンの鼻毛さんはオッサンを守りすぎ、過保護すぎる。 





きっと、もしかしたらタテ社会のルールの重圧に耐えかねた体が、ちょっとくらい、、、 


ということで、鼻毛を飛び出させることでバランスをとっているのかもしれない。 




それは、社会の抑圧に反抗し、もっと自分を表現したいというクリエイティブな欲求の現れ。 




当然といえば当然の防衛本能である。 






きょうも勇猛果敢に飛び出しているゲーハナ。 



しかし、あれ程の飛び出しボーヤをご本人様も気付いていないはずはない。 




なぜ剪定しないのだ。 





そんなことを悶々と考えていたある日、ボクはある結論に達した。 




彼らは社会に、上司に対して中指を突き立てる代わりに、ハナゲを突き出してツッパっているのだ。 


あくまで、“あえて”飛びださせているのだ。 



ささやか過ぎる反抗、、、 

いや、犯行。 



まさかの確信犯。 


パーフェクトクライマー、オッサン。 






ハナゲ、、、それは、オッサンの反骨精神そのもの。 







ハナゲロック






667:one way





人を信じるとか 






信じないとか 






どうのこうの の前に 







まずは 今 ここいる自分を 








たった1人の自分を 









心底 信じたいと思った 








徹底的に信じ抜こうと決めた 










まずは大真面目に自分を信じること 








「人を信じる」自分を信じること 








信じることを 信じること 








一心に信じきること 








シンプル過ぎて なかなか気付けなかったけど 









気付くまでに すこし遠まわりだったかもしれないけど 








結局 全てはそこから始まる 









たった1人の自分を とことん信じること 










いつも 本当のことは そこから始まる






666:in my black cat 3





この前猫を発見してからもう20日が過ぎようとしている。 


春の足音も次第に大きくなり、ボクの起床時間も平均して朝4時に戻りつつある。 



そして、なんやかんやまだ猫を描き続けている。 



幸いなことにボクは画家志望じゃないから、不吉な黒猫の絵など売れなくても最悪のたれ死ぬ心配もなく、恋人への手紙を猫に託す必要もなく、心置きなきなく描きまくることができるのだ。 



なので、来る日も来る日もボクは、ボクの中にいる黒ネコを描き続けている。 



猫は今日もあくまで猫的な表情でこちらを見つめ続けている。 



ボクはそれを紙に写し出す。 



なんで鳥でも大アリクイでもクジラでもラッパでもなく猫なのかは残念ながらボクの預かり知るところではない。 



あとはどこからともなくやってきて、どこかへ去っていく、必然の風に身を委ねるだけなのだ。 




いつも不思議に思う。 




何故、ボクはデザイナーなのか。 



何故“デザイン”にこんなに心惹かれるのか。 



何故、坂本龍一はピアノを奏でるのか。 



何故、村上春樹は小説を書くのか。 






突き詰めていくと、結局答えはいつも自然と必然が握っている。 



必然とは、「したい」という欲求と直結しているように思う。 



つまり、オシッコがしたいときにトイレに行く行為もまた必然だと言える。 



しかし、面白いのはオシッコをしたくなった本人でさえ「何故そのタイミングでしたくなったのか分からない」という点である。 



それが必然なのだ。 




つまり、結果的な話を持ち出すなら「ボクは黒猫を描くべくして描いているのだ。」 


ここで詳しく紹介はできないが、最近起こったいくつかの“偶然の一致”がそれを証明してくれている。 



それはイルカでもカバでも象でもなく「黒猫でなければならなかったのだ。」 






《種をまく人》で有名なジャン=フランソワ・ミレーはこう語っている。 



「要は美しく描くことではなく、それを描く必然性なのだ。 

その必然性こそが、画家の力を左右し上達させていく。」 







ボクは生まれたいから生まれてきて、 



生きたいから生きているのだ。 




そして、描きたいから黒猫を描くのだ。 




猫のように。 




自由に、在るがままに。








665:ありがとうカウンター





さいきん須藤元気さんの本に触発されて、「ありがとう」を連呼しまくっている。 


よくよく考えれば、大ブレイクの書籍ホ・オポノポノでも「ありがとう・愛しています・ごめんなさい・許して下さい」を唱え続けることで自己の魂がクリーニングされ、人生バラ色と唱われているし、 


「ありがとう」 


と唱えまくることで、大病が治ったとかなんだとかで「ありがとう教」とでもいうべき人達は後をたたない。 




「ありがとう」は皆さんご存知のように“感謝”をあらわす言葉である。 



いつの時代もシンプル過ぎる物や言葉は弱く感じられ易いのが、その宿命であるが、その奥行きの深さに“気付いた”瞬間人生は大きくその表情を変えることになる。 



この言葉の効力は思っている以上に遥かに強く、実際口に出して「ありがとう」といってみると、随分体も心も軽くなる実感がある。 


普段なかなか口にしないのが「ありがとう」 


漢字で「有り難う」 


それは要するに「有る」ことが「難しい」モノゴトにたいする謝辞なのだ。 



つまり「ありがとう、は奇跡に感謝する言葉」と須藤さんは語っている。 





そして、話は少し前に行った京都の本屋さん「恵文社」からはじまる。 



そこでボクの目に飛び込んで来たのは書籍ではなく、カウンターであった。 


あの野鳥の会が血眼になってカチャカチャやっている、あのアレである。 



即購入。 



何故なら、以前なにかの須藤さんの本で彼は四国をお遍路しながら、同じカウンターで21万回「ありがとう」を連呼しまくり、それ以降意識が一気にポジティブなった。 

と、書いていたのを、それを見た瞬間思い出し、キャッチ&レジ。 




とにかく、学びの基本はマネるところから始まる。 


パクリとか怖れずに、とにかくマネしきるのだ。 




ということで、ボクはここ数日野鳥カウンターを手に「ありがとう」漬けの日々を送っている。 


余談だが、この野鳥カウンターは正式名称を「数取器」というらしい。 
そして、手にして始めて分かったのだけど、このデザイン、実はとんんんんでもなくスバラしい感じになっている。 


手に馴染むフィット感はモチロンの事、大きさや、丸み、重さに至るまで全体的になんか超絶妙なのだ。 


た、たまらん。 




そして今数えたら、京都に行った2月13日から今日、2月24日までの11日間で累計「40,489回」ありがとうを唱えまくっていたことが判明した。 

1日平均「3,680回」である。 



そいや、今振り返ると、ボクはたったこの11日間の間に3回もウレション、ではなく嬉し泣きしている。 



それは、どれもこれも人の暖かさに触れた時だった。 



深く「感謝」をすることで確実に波動が高まり、心が柔らかくなってきたり、感性にとって良い栄養になっているようだ。 



素直に何かに感謝して「ありがとう」と言えることはモチロン素敵なことだけど、逆に「ありがとう」と言うことで、新たに感謝の気持ちが芽生えたりして良いことずくめである。 



とにかくやってみる。 




愛と感謝に満ちた、相変わら素晴しい毎日である。 






ちなみに、今日のありがとう2,032回であった。 





「ありがとう。」 




2,033






664:nabe lism 【 black hope 】





実は、昨日の「白い鍋」には“対”となるもう1作品がある。 


「白」の対といえば「黒」 


そもそも、鍋に魅せられたのはこの丸焦げの黒い鍋がキッカケだったといえる。 


そして、これは意図的に焦がした訳ではない。 



話は半年前に遡る。 



ボクが一人暮らしを始めて間もないある日の午前中。 

ボクのささやかで甘い2度寝を妨げるべく、豪快に電話が鳴った。 


あんま関係ないけど、こういう時の着信は着信音が携帯の設定とかキャパを遥かに凌いだ大音量でお送りされるような気がするのはボクだけ...? 



ともかく眠すぎて相手も確認しないままに電話に出ると、相手はおかーちゃんだった。 


なんだ、おかーちゃんじゃないか、と、思ったのも束の間の間、 

「?」 

あからさまに様子がオカシイ。 


興奮したお母ちゃんの話を要約するとこうだ、 


「朝パソコンに夢中で、揚げ物を放ったらかしにしてて、ガスコンロが一時火の海になっちゃったけど、ワタシの冷静な対応のお陰で全焼は免れたわよ。オホホ」 



という、やらかしておきながら、まさかの自慢。開き直りフルスロットル。 


何の報告。 



「良かったネ^^」 

と言って、電話を切り再びダイブ・イン・マイドリーム。 


ボクは何の躊躇もためらいも無く、安らかな3度寝をぶちかましたのであった。 






その数日後、実家の玄関先に干されていたこの丸焦げの鍋に胸を打たれ、おかーちゃんに快諾を頂いてもらい受けたのが事の始まりである。 



よく考えれば、白い方の鍋が手に入ったのも、このボヤ騒ぎ後に家のキッチンがオール電化化したためである。 



このようなハチャメチャな経緯で「白」と「黒」の2つの鍋作品が形を成した。 




白が、花の咲く「生」であるとすれば、 


黒は、命の終焉、世界の終わり「死」... 


というのが社会的通説だけども、この2つの鍋は両方が共に生きることそのものの象徴だということにしておきたい。 


村上春樹師が「ノルウェイの森」で大きく扱っているように、「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」 

のだ。 



「鍋」で料理を成し、 


そして食べ、生きる。 


「鍋」は「生」の象徴そのもの。 




これからも感じるままに、この「鍋」を用いて、この曖昧で不確かな「生きる」気持ちを表に現してみたいと思う。 



リリー・フランキーはいう。 


「人間、表現することをやめたら、それはもう死んでいるのと同じこと」 




きっとそうに違いない。 





感ずることを、感ずるままに。 




心の赴くままに。 





そして今日も、 




想いのままに風は吹く。






663:nabe lism 【 white butterfly 】





さいきん鍋がアツい。 


もちろん物理的にではない。 

世界的に鍋は熱くあることで、今日も鍋は鍋なのだ。 



熱を発することが鍋としてのアイデンティティ。 




とにかく鍋がアツい。 



なんでか鍋にものすごぉぉぉぉぉおおおおおーく強く惹きつけられるものがある。 




ある日、実家で捨てられている鍋を目にしたボクは、押さえきれず捨てられた子猫を抱くように大切に抱きかかえ、鍋を手に帰宅。 




それから数日の醗酵期間を経て、インスピレーションの赴くままに白く塗りあげたのだった。 




おもむろに白く塗られた鍋はどことなく馴染めない、家庭では異色の存在である。 




それは「鍋」という“道具”が食物を調理する場であるから、なのかもしれない。 




目で見るその無造作に白く塗られた鍋を、どこかで口が拒んでいるのだ。 



そんな鍋で料理をしてもきっと美味しくない。 



鍋はタフなようで、結構デリケートなバランスの上で成立している道具なのですね。 



しかしそこにはどことなく気持ちを寄せてしまう、一線をこえた所で成立する奥ゆかしい美しさがある。 






そこで、今は一輪挿しにして、カフェのプチ床の間に飾ってある。 




花器に鍋を用いることで、とても生命力溢れる見立てとなって、しなやかで迫力もある。 

なかなか気に入っている。 



ナベダイナミズム。 




ナベリスムである。 



料理に使われようが、捨てられようが、白く塗られようが、おかまいなしで泰然自若と鍋している、その武骨な鍋らしさにボクは惹かれているのかもしれない。 




鍋が鍋であるように。 




ボクもボクらしく、ボクそのものであればいいのだ。 




それが魅力の本質なのかもしれない。 






鍋が鍋であるように。 




ただただ、静かに、厳かに。







662:make my hanger





ひとり暮らしはなかなか物要りである。 


いや、「暮らす」こと自体“物”を使うことの総称のようなものなので、人数に関係なく、暮しは物要りである。 



そしてボクのひとり暮しには「物」に対する、いくつかの自分ルールがある。 



1.極力「物」を持たないこと。 


2.使う物のその一切すべては「自分の感覚」を育む手助けをしてくれる物であること。 


3.新しく「物」を増やすときは、その物と一生涯向き合い、寄り添って生きていける自信と覚悟があるのか。 


4.なるべく捨てないこと。 



という感じで、ことのほかデザイナーとして、「物」に関しては一貫してシビア&ストイックな姿勢を強固として崩さないボクである。 



ゴミを出さない為には、まず、ゴミを買わないことが最大原則なのだ。 



そこで、ここ最近ボクの物欲会議の議台に乗せられ、議題の中心になっていたのがハンガーその人である。 


ハンガーというプロダクトは身近ながら、なかなか手頃で素敵なデザインのものがない。 


良いデザインのものだと1本で500円くらい平気で請求されるため、クローゼットにそれなりの統一感を出す為には、なかなかの英断が必要とされるワケである。 


ということで、先日洗濯デビューを果たしたボクにとって、ここ最近ハンガーへの欲求はますます高まる一方なのだ。 

この前いっちゃんサトちゃんとニトリに行ったとき、5本で300円くらいのシンプルハンガーが目に飛び込んできて、あやうく妥協してしまうところだった。 



もうマジで購入する5秒前。くらいの勢いだった。 



と、彼は帰宅したのち、いささか落ち着かない物腰で語っている。 




しかし、その出来事がハンガーに対する抑制の臨界点を突破するトリガーとなり、「アカン、もう自分で作ろう」と心を固めたのであった。 





あれから2週間、、、今日の午前中、天才写真家のように、なんの前触れもなく、その瞬間は突如訪れた。(残念ながら陽気な効果音はなかった) 



晴天の霹靂。 


まさに晴天のハンガーメイキング。 



気が付いた時には1時間足らずで5本もこしらえていた。 



しかも、作ればつくるほど上手くなっとるやぁん。 


この様を山内容堂公が目にしたらきっと上士にしてくれるに違いない。 




人間不思議なもので、自らの手によって産み出したものには自然と愛着がわくような仕組みになっている。 


料理でも同じで、自分がつくったものはなんだか美味しい。 


というか、多少マズくとも、寛大なマインドで許せちゃうからアラ不思議。 



それは単に、自己愛の投影の結果にすぎないのかもしれないが、とにかく何が言いたいかって、この5本のハンガーちゃん達はなかなか良い具合で大満足である。 

ほぉすしぃっ!ぅみっっつつっ!! 

である。 



材料が真っ直ぐ過ぎない、独特のくたびれ具合がいい味になって、とても気にいっている。 

今おもえば、市販のハンガーはストレートすぎる。 


ラインがパリっと出過ぎている均一過ぎる感じが気持ち悪いのか、分からんけど、自分でこしらえたやつは良い感じのアンティーク感。哀愁。グッジョブ。 




とにかく、タイミングさえ間違えなきゃ、やりゃできる。のだ。 




だから、“今だっ!!”というインスピレーションが訪れるその瞬間まで、やりたいことをやり尽くす為の不屈のスピリットと辛抱も必要。 



偉大な先人達が皆そうであったように、市場に欲しいものがなければ、自らつくる。 



商売の真髄に触れたような一日だった。







661:よるがおりてくるまえに





よるがおりてくるまえに 





どこから ともなく 



よるがおりてくるまえに 





このすてきなじかんが 



とぎれてしまうまえに 





ぼくは きみに  




つたえることがある 




きみにわたす  



ことばがある 






ゆっくりと したたかに 



よるがおりてくる 




なにいろか わからない いろが 




あでやかに せかいを そめる 





ぼくは しずかに 



それを みまもっている 





けしきも かぜも きもちまでも 


ひとつのこらず 


よるにすいこまれていく 





せかいのはしっこで いきているような 


たよりない きもちになる 


たよりない つきが 


ひっそり せかいをてらす 





よるがおりてくるまえに 





ふたり てをつなぎ 



どこまでもいこう 





きみを  



どこまでも 






あいしているから









660:フラループはじめます





今日から、うっちーの、家の、おうちカフェ2Fスペースにて、バッグクリエイターのサトちゃんのオリジナルブランド「FuraLuup」によるハンドメイドバッグの販売がはじまりました。 



オールハンドメイド。 

まさに唯一無二。 


そして彼女はドット&ボーダーをこよなく愛している為、その趣向がそのままソックリ、実に全面的に、惜しみなくバッグクリエイションに反映されている。 

まさに天上天下唯我独尊。 



サトちゃんのやわらかな人柄もバッグをとりまく雰囲気となってどこかに現れていて、モノつくりはほんとに面白いなぁ、とおもう。 



彼女のバッグは、ハンチング帽のような形をしていたり、ネジれまくっていたりと、サトちゃんの繰り出すバッグはなかなか個性派揃いで、並べておくとなかなか不思議な世界観が楽しめる。 



サトちゃんといえば、DMのデザインをさせて頂いたり、クリエイターズマーケットをお手伝いに行ったり、気が付けば全面的にバックアップさせて頂いている。 
(って、クリマからまだ2月しか経ってないんだね。おそい。http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1637812646&owner_id=14775857) 



そもそも、サトちゃんとは中学校が一緒だったという歴史的事実が全くの嘘のように、つい最近まで全く関わりのなかったジンブツである。 

なんやかんやで、DMやらクリマやら協力させて頂いたかと思えば、今日から委託販売。 



ジンセイ、どこで誰と、どうなるかなんて分かったもんじゃないですね。 



そいえば、あのクリマがよいきっかけとなり、サトちゃんのバッグは来月から大阪の高島屋さんでも一時的に取り扱われることになっている。 


友達史的快挙。 


行動をしていくと、良くも悪くも、何かしら結果がついてくるもんだね。 


おめでとうだね^^ 




せっかくなのでボクんトコでも、とにかく「ちゃんと売らなきゃ」と、、資材集めに今日も聖地「実家」におもむき、旧マイルームから使えそうな資材を片っ端から車に詰め、家にあるもを総動員した結果、、、、超ナントカなった。 


グッジョーブ自分!! 


ということでー、高島屋さんに先行して、きょうからサトちゃんズマーケットの開幕でーす!! 



是非ともコーヒーでも飲みがてら遊びにきてください^^ 



いちおう、第1期は3月中旬までの展開になるので、気になる方はお早めにチェケラして頂くことをオススメします。 











いつもながら、気が付くと“何か”が始まっている。 





そして、次に気が付いた時、 

両目が揃って開かれた時には全てキレイサッパリ終わっているのだ。 






なんにしても、次に気が付いた時、サトちゃんのバッグが売れているよう尽力したい次第である。